娘に洗礼を授けました
10月に一歳の誕生日を迎えた娘ですが、誕生日の日に無事洗礼を授けることができました。
手作りのベールも当日までに出来上がり、白い衣の役を果たしてくれました。
儀式で、親の宣言というものがあります。
悪を退けますかーはい、退けます。
などいくつか宣言するのですが、大きな声でハキハキ答えるように意識いたしました。
いえ、むしろ意識するというより、退けます!という意思がはっきりしているので自然と声が大きくなるといった感じでした。
式の後は参列して下さったシスター達にお礼を述べ、代母を務めてくれた妹とその旦那さん、私の両親とで会食をして感謝のうちにお開きになりました。
娘に洗礼を授けるということは私の中で非常に大きなものでした。
娘を神様の子の一員にすることが出来たという幸福感がすごいです。
参列した方達全員にたくさんのお恵みがもたらされました。
一年間娘を育ててきてつくづく思うことがあります。
子供は親の所有物ではなく、神様から預かった神聖なもの。
預かった親は清く正しく子供に愛情をたっぷり注ぎ立派に育て上げ、いずれは社会に出ていって社会貢献できる人に、結婚して家庭を築き、家族を愛し、愛されるように。そして生涯を終えたら、神様にお返しするのです。
子供を良いものにしようと思うのであれば、親の物差しで子供の枠を決めてしまわない事。
幼少期は教育よりもその子をひたすら愛する事に徹することが大事だと思います。
親が人生を楽しんで生き生きと、毎日笑顔で過ごしていることが何よりの教育です。
親はお手本とならなければいけないので自分を律することも出てきますね。
今の苦労が将来良いものとなって帰ってくることでしょう。
自分もそうやって両親に育て上げられてきたはずですし、子供をたっぷり愛して大切に育てることは、子供に、そしてそのまた子供にと受け継がれていくのです。
子育てにおいてもまた、愛に勝るものはないと思います。
娘に洗礼を授けます
日々の忙しさに身を任せて過ごしているうちに、ブログの更新をせずに秋になっていました。
家の裏に雑木林があり、その手前の土手に彼岸花が鮮やかに咲き誇っています。
ブログの更新をしなかったのは、娘との時間を大事にしようと思ってのことでした。
まだ一歳にもならない幼い娘には思った以上に手がかかり、記事を書く時間を娘にかけてあげようと思い直しました。
最近はまだ夜間授乳はしていますが、起きることが少し減ってきて、私もひどい寝不足だったのが軽い寝不足にかわり、ありがたい今日この頃です。
ブログ開設当初は、毎週木曜日に記事を投稿しようと目標だけは立派に掲げて意気込んでいましたが、今ではすっかり意気消沈、実行できそうにないと思えるのが悲しいです…トホホ。
娘は11ヶ月になりました。10月には一歳になります。
誕生日に娘に洗礼を授けようと思っています。
カトリックでは幼児洗礼は一般的です。
従来の幼児洗礼式は1614年、教皇パウロ5世によって認可された儀式ですが、古来の成人入信式を多少短くまとめたものに過ぎなかったため、第二バチカン公議会がそれを幼児の実状に順応させて改訂するよう定め、幼児の洗礼にふさわしい儀式が作られることになったそうです。
人は、洗礼の秘跡によって初めてキリストの過越の神秘にあずかり、神の民の中に受け入れられると考えられています。
成人の洗礼と違って、信仰をまだ自分のものとして表明することのできない幼児の洗礼は、親の信仰と責任を前提としています。
私も洗礼式までに勉強し直して式に臨もうと思っています。
洗礼の際には、キリスト信者の共同体の中から選ばれた代父母というものを必ずたてます。
代父母は洗礼の後には本人が信仰とキリスト教徒としての生活を保ち、深めるよう配慮します。
幼児洗礼にも代父母をたてますので、私は実妹に代母をお願いしました。
妹は快く引き受けてくれて、そのことに私はとても感謝しています。
式までにベールを娘に手作りします。
明日はその材料のチュールを買いに出かけます。
ですので今日は早めに眠りにつこうと思います。
おやすみなさい。
人は愛がなければこの世に存在できません
娘を出産してまず思ったこと、それは
(なぜこんなにも抱っこが好きなのでしょう)
ということです。
基本的に新生児のお世話というのは授乳、おむつ替え、沐浴なのですが、その間にあやすということが入ります。
あやす際はたいてい抱っこです。
特に新生児の間は抱っこをすれば大抵の場合は泣き止んでくれて、おっぱいを飲み眠ってくれます。
今からおよそ800年前にこんな実験がありました。
ミルクやお風呂には入れても、話しかけたり抱っこしないと亡くなってしまうというのはどういうことでしょうか。
赤ちゃんが抱っこを求めるのは、赤ちゃんにとって一番わかりやすく愛情を感じるスキンシップだからではないでしょうか。
それらの愛情のスキンシップがなければ、命を維持できないのです。
人はこの世に誕生するための過程から人生を通して、愛がなければ存在できません。
その命を誕生させるまでに至る過程からです。
まず、男女が愛を持った行いで生命が誕生します。
妊娠中も母親はお腹の中の赤ちゃんに愛情を注ぎます。
カフェインやお酒、タバコは経たなければなりませんし、薬も気軽に飲めませんから全ての病気にかからないよう気を使います。
体重増加も穏やかになるように、交通事故に遭わないように、妊娠中毒症にならないように…あげるとキリがないくらいに、母になった女性はお腹の子を思いやり生活します。
そして出産し、赤ちゃんのお世話が始まったら、ありとあらゆる愛を持ってお世話をしていくのです。
私は実際に娘をお世話していて、小さな赤ちゃんが教えられてもいないのにたくさんの愛情を求めることに驚きましたし、800年前の実験の結果からも人にとっての愛という存在について考えさせられました。
キリスト様は、
【お互いに愛し合いなさい】
と教えてくださいました。
キリスト教は、一言でいうなれば愛の宗教です。
私は人生で何が大事かというと、何を置いても【愛】だと断言できます。
何に対しても愛を持って行うことが大事だと思います。
行動に愛が伴っていないとこの世の全てのものは虚しいのです。
マザーテレサもおっしゃっています。
【大切なのは、どれだけたくさんのことをしたかではなく、どれだけ心(愛)をこめたかです】
私たちは今一度人生における愛について考えるべきかもしれませんね。
人生においてお恵みのある出来事
昨年10月に娘を出産しました。
生後1ヶ月までの間に新生児訪問で市から訪問員が自宅に来てくださいました。
「3ヶ月までが大変だけど、それが過ぎたら楽になるわよ」
とその方が言ってらしたのですが、その時の私の正直な気持ちはと言いますと、
(あと2か月以上もこの大変さが続くの?!ムリ…)
というものでした。
あれからすでに半年、あっという間だった気がします。
確かに訪問員の女性から言われたとおり、3か月過ぎるとぐんとお世話が楽になった感覚がありました。
あんなに何もかも初めてで大変だった新生児のころの記憶が薄れてきている自分にも驚いています。
半年経ち体力も戻り、気持ちにも余裕が見られるようになってきた今感じていること、それは、女性の命懸けの大仕事、子供を出産するという経験をさせていただけたという、神様への感謝の気持ちです。
神様から命を授かり産み育てる経験をさせていただいていると、いかに私達が尊く愛されている存在か気づきや発見の連続で、そしてその全てが神様ないしキリスト教に繋がっているということに驚いています。
娘を育てていく中で、人間は周りの愛なしでは本当に生きていけないのだということにも気付かされました。
そしてどれほど私が沢山の人々に支えられ守られ愛されているかを痛感いたしました。
娘を出産したことは、私の今までの人生の中で間違いなく一番お恵みのある重要な出来事でした。
厳密にいいますと、自分がこの世に誕生した時が一番お恵みがあり重要であると思いますが、私が実感した上では出産ということにいたします。
私は天から燦々と降り注ぐお恵みを感じ、私は娘に愛を注いで育てる日々を送っています。
まだ半年間ではありますが、母になるということはこんなにも体力的にも精神的にも大変だということ、自分が持ってる角の部分が打ち砕かれて新たな発見が沢山ある喜び。
それらの気づきや発見を自分の中だけにしまっておくのではなく、できることなら沢山の方々と共有したいと考えました。
そこでこちらのブログ開設の運びとなりました。
ブログのタイトルは私がひどい産後鬱のさなか、
(私のように辛かったり悲しい思いをしてる人がいたら、その人の支えになってあげたい。あたたかく包み癒してあげたい)
と強く思っていましたので、それを
【あなたの陽だまりでありたい】
と表現させて頂きました。
私は今まで人に流されるタイプであまり自分というものがなかったように思います。
ですが出産してからというもの、自分の中に信念といえるようないくつかの強い意志が芽生えました。
それらもこちらのブログでこれから徐々に書かせていただければと思っております。
どうぞよろしくお願いいたします。